その1. 電通映画社のなり たち〜終戦まで (後編・1999年7月25日)
戦時下の日本動画そのころ、日本の動画製作者たちも、時流のなかでそれぞれの道を歩んでいました。文化映画社の統合と、電通映画社まず、村田安司氏。1936(昭11)年 まで、横浜シネマ内で、数多くの教育的な漫画映画を製作してきましたが、“自分の製作所を持ちたい”という夢を実現すべく、「居酒屋の一夜」という作品を最後に、横浜シネマを退社。翌1937(昭12)年、『村田映画 製作所』を創設します。しかし、1939(昭14)年の文部省からの委託作品「仲よく働け」を 除き、漫画映画の製作は、行わなかったということです。
それから、政岡憲三氏。電通映画社創立と関 係する部分もあるので、年代順にまとめると、
1932(昭7)年 京都に『政岡映画製作所』創設。メンバーは、木 村角山氏、清水秀雄氏、熊川正 雄氏ら。後に、瀬尾光世氏が参加。
トーキー漫画「力と女の世の中」製 作。1933(昭8)年 『政岡映画美術研究所』と改称。鉄筋コンクリートの新社屋となる。 1935(昭10)年 「ターちゃんの海底旅行」「森の妖 精」を製作した後、政岡映画美術研究所は、解散。
JOスタジオ作品「かぐや姫」アニ メーション部分を担当。1936(昭11)年 征木統三氏、木村角山氏、宮下万三氏、熊川正雄氏ら元のメンバーを集めて、JOスタジオ作品の製作。
そのほか、松竹系の短編映画製作会社である、日本映画科学研究所の仕事も手がける。1939(昭14)年 松竹の協力を得て、『日本動画研究所』を京都に創立。
第一回作品は、「べんけい対ウシワカ」。1940(昭15)年 日本動画研究所を『日本映画科学研究所』と改称。 1941(昭16)年 5月、松竹が、漫画映画部を東京築地に設置。製作課長に就任する。 1942(昭17)年 松竹にて、横山隆一氏原作 “フクチャン”シリーズの製作。第一作は、「フクチャンの奇襲」。 1943(昭18)年 「くもとちゅうりっぷ」完 成。 また、政岡氏の『政岡映画研究所』から独立した瀬尾光世氏 は、1933(昭8)年『瀬尾発声漫画研究所』を東京に創立。日本漫画フィルム研究所の専属として“お猿の 三吉”シリーズ、田河水泡氏の“の らくろ”シリーズなどを製作した後、専属を離れ『瀬尾プロダクション』を設立しますが、経営維持のため、後に、大村栄之助氏を社長とする芸術映画社と合同。“わかもと”のPR動画や、1940(昭15)年「あひる陸戦隊」、1941(昭16)「ア リちゃん」などを手がけ、さらに1942(昭17)年、日本最初の長編漫画映画「桃 太郎の海鷲」を完成。
そして、文化映画社の統合をキッカケに、政岡氏のいる松竹へ入社した瀬尾氏は、そこでついに、戦中最後の大作「桃太郎・海の神兵」(1945・昭20年)を作るのです(“文化映画社の統合”については、 この後詳述します)。さらに、ここで触れておきたいのは、持永只仁氏 です。
1919(大正8)年、満州に生まれた持永氏は、日本へ渡り、日本美術学校の図案化へ入学。1930(昭5)年 に日本公開された、スタレヴィッチの「魔法の時計」を観てアニメーションに興 味を持ち、卒業後、舞台美術の仕事を経て、瀬尾氏のいた芸術映画社へ入社。背景美術を担当し、前述の「あひ る陸戦隊」「アリちゃん」「桃太郎の海鷲」のスタッフとして活躍。
特に、「アリちゃん」でのマルチプレーンショットの背景と撮影は、持永氏の手によるものであり、これは日本で 最初の試みと言われています。
その後、芸術映画社は朝日映画社へ統合(瀬尾氏はこのとき松竹へ)。そこでは1944(昭19)年「フクちゃんの潜水艦」(演出・関屋五十二、横 山隆一)の撮影として持永氏の名前を見つけることが出来ますが、健康を害し、また戦災にも遭ったので、満州へ戻り、満映へ入社。そこで敗戦 を迎えたということです。
前回もみたように、短編映画の世界は、昭和14年の映画法(文化映画の強制上映)と、昭和18年の文化 映画社統合によってかなりの影響を受けていたと思われますが、それは漫画映画の製作者たちも同様だったのでしょう。史料を年代順に見ていくと、独立や統合 のなかで、さまざまな作品が生まれているのが、よく分かりました。
そして、文化映画社の統合。電通映画部が独立するのも、全くこの国家統制がその原因なのです。
既に述べたように、ニュース映画に関しては、1936(昭11)年の通信統制により、電 通は通信部とともにその製作を同盟通信社に強制譲渡させられていました。
その同盟通信社は、映画法の主旨に沿う形で、大毎、東日、朝日、読売とともに、1940(昭15)年社団法人 『日本ニュース映画社』に統合され、さらに1941(昭16)年には、社団法人『日本映画社』と改称。配給組織や、十字屋文化映画部など文化映画数社をも 統合して、内閣情報局の管理統制のもと、ニュース映画を製作、国内へ供給していました。もちろん内容統制もあったのでしょうが、同時に国家総動員法による物資動員計画もあり、フィルムの配給 も不足していました。生フィルムの配給を管理する内閣情報局は、民間の映画事業について、劇・文化映画を数社に統合、強力な政府の製作指導を与えるという 方針をうち立てます。
そして、1943(昭18)年。内閣情報局は映画統制を一層強化し、劇・文化映画それぞれ製作会社を3 社に限定するという方針を決定。これにより、文化映画について大幅な統合が行われたのです。
まず、1月には山口シネマや新世紀映画社など7社が理研科学映画社に併合。
7月、芸術映画社など8社は朝日映画社と合併。
この大手2社と並び、文化映画3社として7月に認可されたのが、何故か“創立準備中”の電通映画社でし た。
この頃、電通映画部はフィルムや現像液の配給ストップなどで開店休業の状態。しかも、未だ創立していな いこの会社が、他の大小映画社を抜いて認可され得たのは、何故だったのでしょうか?
やはり、1936(昭和11)年に、通信部とニュース映画製作を失った後、スタジオまで建築して必死に 育てた映画部を他の会社へ譲渡させられてしまっては、何も残らない、という考えが強かったのだと思います。
加えて、限定された3社に食い込めば、それだけ安定した委託・受注が確保できるという考えもあったことでしょ う。
電通は、この認可をとりつけるために映画部の独立会社化を進め、(政府に対し)“猛工作”を行った、という旨 の記述が、電映「三十年の歩み」に記されています。
ちなみに、同「三十年の歩み」には、蒲田スタジオの建築や独立について、“映像こそ戦後必ずマスコミの 主要メディアに成長するだろうと睨んだ電通首脳の勇断”“先見”などという表現がなされていますが、これはサスガに社史特有の詭弁の感が強く、もっと現実 的・即物的に、戦時体制下での文化映画製作権を獲得することが第一義だったのではないかナァ、とも思うのですが、まあそれは別の話です。
ともあれ、文化映画3社としての認可を得た後、電通は直ちに日本映画科学研究所、京都映音研究所および 合同映画社を吸収して、『電通映画社』の設立認可を申請。7月23日その認可を受け、8月1日創立総会を開き、26日設立登記を完了。電通映画社が誕生し ます。
さてここで注目したいのは、吸収されたという日本映画科学研究所。
先に挙げておいた政岡憲三氏の活動をご覧下さい。 『日本映画科学研究所』という名前が、二箇所に確認できます。ひとつは、1936年“松竹系の短編映画製作会社”として。
そしてもうひとつは、1940年“日本動画研究所の改称後の名称”として。
そもそもこの2つの会社を同一と解釈してよいのかも、現在の筆者の貧弱な史料ではハッキリしていません。但 し、政岡氏と松竹の関係をみても、この2つの会社の同一名称については、“関連がある”とは考えてもいいのではないでしょうか。そして、創立された電通映画社が製作し、戦中唯一記録に残っているアニメーション映画のスタッフを見る と、その関連はますます興味深く湧き上がるのです。
1944(昭19)年「動物の増産部隊」(1 巻)作画・木村角山
そう、この木村角山氏は、戦前より政岡憲三氏と活動を共にし、日本動画研究所=日本映画科学研究所でも、多くのアニメーション製作に携 わっていた人物です。
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と、漸く“電通映画社のアニメーション”に戻ったところで、その1『電通映画社のなりたち〜終戦まで』 は、幕にしたいと思います。
いやしかし、この頃の短編・動画製作の世界は、統合などによって、いろんな人の名前がいろんなトコロで見受け られるのですが、調べてみると、電通映画部=映画社周辺でも、あるのですね。アニメーションに関連する事柄が。
戦後の10年間は、電通映画社は殆ど活動を停滞させますが、アニメーションの世界は、引き続き分裂・統合など が活発に行われ、さまざまに分化していきます。そしてその中のひとつの流れに、電通映画社がまた関わりを持つこととなるのです。
次回は、その戦後10年間をざっと見ていきたいと思います。